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吉野朔実死去(作者の死、アンビバレンスなもの)

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三日前、吉野朔実死去のニュースを読んだ。
好きか嫌いかでいえば、好きな漫画家だ。けれども、あまり作品を読んでいないのではないか。『ぼくだけが知っている』や『period』とあと何だったか、それと短編をいくつか。だから、良い読者とは言えない。それで、好きだなんて言うのもおこがましいかもしれない。
作者は死んでも作品は残る。まだ読んでいないものを読もうと思った。

訃報に触れてからずっと、喉に刺さった魚の小骨のように、変な後悔のようなものが、俺の中にある。生きているうちにもっと読んでおくべきだったんじゃないかという小骨だ。
作者が生きているうちの読書と、死んだ後の読書とで本質的な違いがあるのかどうか、よく分からない。読むこと、すなわち本を購入することによって、作者の経済に寄与するというのはあるだろうけれど、それは直接的な読書の理由にはもちろんならない。
では、俺はなぜ後悔しているのだろう?

例えば、人が死んだ時、その人が無条件に近い形で再評価されるということがある。あの風潮があまり好きではない。自分自身はわりと冷静なスタンスだと思っていても、いつの間にか自覚せぬうちにその風潮に流されているということもあるかもしれない。しかし、死によって上乗せされた評価というのは、正しい評価なのか怪しいものだと思う。

正当な評価をするということは、厳しい体験であるべきで、死によって甘やかされるべきものではない。つまり、俺の後悔は「死によって幾分感傷的になり、吉野朔実作品に対してもはや自然な読書が出来ないのではないか」という疑念による後悔なのかもしれない。その一方で、感傷的になるということも悪いことではないというアンビバレンスな感情もあるのだけど。

ともかく、そう後悔させる時点でもう作者の勝ちだ。それは素晴らしい漫画家であることの証左だ。正当な評価に耐えうる作品だということを俺は無意識に認めている。俺が読んだいくつかの作品だけで、そう思わせるだけの素晴らしい読後感があった。それは未読の作品においても同様なんだろう。そんな印象が細胞のどこかに横たわっている。だからこそ、フラットな感情で未読の作品を享受したかった。そういうことだ。

などと言いながら、死をきっかけに再び読み始める。そういうことがあってもいい。感傷的といえば感傷的なんだろう。それでも俺は彼女の作品を読もうと思う。合掌。


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2016/05/05 01:18 |COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

大アーチは描かれる


例えば、こんな想像をする。いつかは分からないが、ある日、俺が死ぬ。バナナの皮で滑って頭を打つとか、チュパカブラに血を吸われるとか、猪木のビンタで首が折れるとか、なるべく悲愴感がない方がいい。遺言にはこのブログのURLが書いてある。そうやって死んで、何ヶ月か経過した頃にとつぜんブログが更新される。近しい人たちがそれに気付く。

死んだ人間がブログを書く。主のいないブログが更新される。それが人を惑わし、人を笑わせ、人を怒らせ、人を泣かせる。そんなことが出来たら、とても素敵だと思う。実はシステム的には予約投稿の機能を使えば可能なことだ。

けれど、書く内容が難しい。あまりにも変哲のない内容だと、ただ単に予約投稿をしただけのことと同じであり面白くない。死後の日記ということを匂わせ、なおかつ感傷的にならず、重苦しくならないようにしなければならない。テクニックが必要だ。俺には無理かもしれない。しかし、やってみる価値はある。

死という人生屈指のイベント。利用しなければ損だ。一発勝負だ。待望のコースに入ったボールに対して思いっきりバットを振り抜くのみである。
そうして、このブログは完結する。
大アーチは描かれる。
そんな想像をする。


2016/04/29 04:51 |COMMENT(2)TRACKBACK(0)  

congratulations


昔行った小さめの動物園には、翼を十分に広げることのできない鷲、コブのしおれたラクダ、足を一本失ったジャガー、生肉に興味を持たないライオンなどの何かしら不具を背負った動物たちが飼育されていた。動物に「アイデンティティーの喪失」というものがあるのかはしらないが、それでも彼らは生きている。その姿を人間に見られている。好奇。洞察。憐憫。そんな視線だ。本来は楽しいところであるはずの動物園を「宿名的に悲しい場所」と定義するならば、ここはある意味、動物園らしい動物園ということになるのだろうか。
そうやって俺は、動物たちを見ているうちに、自分も檻の中に入っていてもおかしくない、そんな気持ちになったのだった。

電車に乗って車内を見渡す。口を開けて眠るサラリーマンや文庫本を読むOLやスマホをいじる学生やスーパーの袋をぶら下げた主婦や優先席に座る老人、彼らがどこへ行くのかは知る由もないが、それぞれの生活をこなし、日常を消尽しているかのように思われた。困難は多かれ少なかれ彼らに襲いかかり、時に打ち勝ち、時に敗北する。その度に得難いもの得て、あるいは失う。当たり前のようにこの世は不平等で、足を失ったり、翼を損なうこともままあるのだろう。ドラクエでいえば「つうこんのいちげき!」を受けることになる。もしくはすでに受けている。それでも彼らは生きている。
なんにせよ、終着点は死であるが、それでも彼らは生きている。





2016/03/18 00:34 |COMMENT(1)TRACKBACK(0)  

象徴的な死


ジョン・レノンいわく、「エルヴィス・プレスリーは軍隊に殺された」のだし、ある作家によれば、「エルヴィス・プレスリーは二重あごになった時に死んだ」という事になる。スターというのは象徴的な存在であるから、スター性が大きければ大きいほど象徴的に殺される事が多いわけだ。

俺はSMAPというグループが特に好きでも嫌いでもないのだけど、過日のSMAP騒動以降、テレビに映る彼らを以前と同じようには見られなくなっている。感じるのは、「SMAPは死んだのだろうか」という事である。権力者に支配される不自由な人間という図式を露呈してしまった時に、彼らは一つの象徴的な死を経験したのかもしれない。

けれども、象徴的な死というものは、何も否定的なものではない。ユングの語るそれは、象徴的な死の後には再生があって、むしろ肯定的に捉えられるものだ。一度、死を経験する事によって新しく生まれ変われるという事もあるのだ。冬(死)の後には春(生)が来る。
ドストエフスキーが銃殺刑寸前に助かるという経験をしたり、夏目漱石が生死をさまよう大喀血を経験したりした事は、やはりその後の仕事に肯定的な意味で大きな影響を与えたはずなのだ。だからSMAPの五人にも、これまでにない、より高いレベルの活動を期待したい。例えば、好きでも嫌いでもない俺のような人間が、大ファンになってしまうような。

象徴的な死というのは、彼らに限った事ではなくて、交通事故に遭い奇跡的に助かるとか、大病を患うも回復するとか、我々一般人においても起きる事象である。事の大小こそあれど死と再生というのはわりと身近なものなのだろう。
携帯のメールアドレスを頻繁に変更する知人がいるが、彼によれば、そうする事によって人間関係を整理しているという。新しいアドレスは知らせたくない相手にはもちろん知らせないし、本当に知らせるべき相手にしか知らせないようにしている。アドレスを変更するというのは、人間関係をリセットする現代的な一種の生まれ変わりともいえる。

デヴィッド・フィンチャーの映画『ファイト・クラブ』の主人公は、物質に支配された資本主義の権化のようなサラリーマンであるが、映画の早い段階で、ブランド物で取り揃えられた彼の部屋はとある事により木っ端微塵に爆破される。それは主人公の象徴的な死と同義であり、それからの主人公はそれまでの人生とは全く違う人生を生きる事になるのだった。

バンジージャンプの起源であるバヌアツ共和国の成人の儀式は、伸縮性皆無のツタを命綱にして30mの高さからダイブする。これは象徴的な死を経験する事に他ならない。そして生きて帰る事によって成人し、豊穣を生のメタファーとする事によって慶賀される。(実際に死んでしまう事もあるらしいけれど、その危険性は必要なものだ)
こういった死と再生の儀式は世界中の至る所で見られる。民俗学でいう「擬死再生」だ。

何かしらの象徴的な死を経て、新しく生まれ変わりたいと思う気持ちは俺にもある。
バンジージャンプはやりたくないけれど。


2016/02/12 00:08 |COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

むずかしい死


無数の矢を受けて立ったまま死んだ武蔵坊弁慶、「ブルータスお前もか」のカエサル、次々に憤死する『三国志』の武将達、コブラを胸に咬ませて自決したクレオパトラ、馬の首を抱きしめ泣き崩れたニーチェ、「唯ぼんやりした不安」を抱えて自殺した芥川龍之介、若干八歳にして平家滅亡とともに海に沈んだ安徳天皇。様々な人物の様々な死。どれも劇的な死に方で、こう言っては何だが、悲壮で格好良いといえば格好良い。

けれど個人的に望むのは、もっととぼけた死に方だ。
死というものは前提として「とても悲しい」ものだから、だからこそ願わくは軽妙に死んで行きたいと思う。残された者が笑えるような、ひとかけらの優しさを内包した死に方。
つまり、酔っ払って水面に映った月をすくい上げようとして溺れ死んだ李白や、ハゲワシが落とした亀が頭に当たり死んでしまったアイスキュロス、大好きなタニシを食べて死んだ魯山人。彼らのようなどこか笑いを誘う微笑ましいような最期が良い。

「僕は遠からず死ぬな、と思っていた。それも、ラリって階段から転げ落ちるか何か、そういったことのように思えた。別に悲愴感はない。野次馬になってその様子を見られないのが残念だが。」とエッセイに書き、十五年後、酔っ払って実際に階段から転げ落ちて死んだドラッグ中毒だった中島らも。彼もこれに入れるかは悩むところ。

今の時代は荘厳な死や英雄的な死というものは難しい時代だろう。けれども、とぼけた死に方はまだまだ出来なくもないのではないか。
と言っても、俺に出来るのはせいぜい「バナナの皮で滑って頭を打つ」ような死に方くらいだけど。いや、それも難しいか。
それにどうしたって「死」と「悲しみ」は不可分な関係にある。どんな死に方をしても、悲しいものは悲しいのだ。

   人生は危険だよ、それは知ってる。それに、苦しみもいっぱいある。
   だからといって、まじめなもんだとは限らんよ。
            カート・ヴォネガット『チャンピオンたちの朝食』



2016/02/03 23:49 |COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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