空港にて


一昨日、佐賀への帰路の事。
空港の搭乗ロビーにて、隣の椅子に座ったおばさんが、旅慣れしているのか、ピクニック気分なのか、りんごをぱくぱくと食べ出した。
そして、りんごを食べ終わり、今度は「ちょっとトイレ行ってくるので、荷物見ててもらえる?」と俺に話しかけてきた。
おばさんにとって、置き引きする人間も赤の他人であれば、俺もまた赤の他人であるはずなのだが、それでも見張りを頼むのは俺がとてつもない好青年オーラを発していたからかもしれない。

ところで、飛行機に乗った際、いつも必ずされる救命胴衣の説明が一切無かったのだが、俺の記憶が抜け落ちているのだろうか。それとも、格安航空だからか? そ、そんな馬鹿な。

今は帰省中の為、この文章はスマホで書いている。とても書きづらい。スマホで長文を打つ事に慣れていない。疲れるし、なんだか思うような文章も書けない。
よって、今日はこれまで。


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2016/01/30 03:51 |雑記COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

疑問&帰省


店などでたまたま聞き慣れた曲がかかっているのを耳にすると、iPodなどで自分で曲を選んで聞くのと違う。いつもと違う感じを受ける。良い曲だな、と思う事が多い。これはどういう事なんだろう。
一回性とか偶然性とか運命性とか、そういった何かが心理的に作用するからだろうか。

話は変わるけど、明日から帰省する。
格安航空で帰るので、行き慣れた羽田空港ではなく成田空港に行かねばならず、少々移動が面倒だけど、少々の不便は我慢しよう。金、金、金。
格安航空というのは、ANAやJALに比べると、どうしても安全性に不安を覚えてしまう。
飛行機が無人島に不時着した場合も考えて、バッグに羊羹も入れた。準備万端である!


2016/01/27 23:01 |雑記COMMENT(1)TRACKBACK(0)  

ブログ雑感


ブログを書く人の思惑は多種多様だろうけれど、見方によってはブログというのは箱庭療法の箱庭のように、その人の個性が形取られた世界であると思う。文章や写真はもちろん、テンプレートの色や構成、その形象から読み取るものは無意識の領域にまで及んでいて面白いと思う。

気軽に文章をアップロード出来るからこそ書ける事もあるだろうし、日々の経験や日頃考えている事を文章にするという行為は、随時次から次へと記憶の片隅に追いやられる知見を改めて引き出して客観化して記録する事になるのだから、なかなかバカに出来ない。「軽い形で自分の考えを語って、人は案外本音に達している事が多いものだ」という三島由紀夫の言葉は傾聴に値するのではないだろうか。

今日、仕事中にネットにかまけていたら、80歳の男性が書いているブログに辿り着いた。老後生活の身辺の出来事を飾り気の無い文章で書いてある。まず、その歳にして不自由なくブログをやるというPCスキルに驚いたが、ブログを書き続ける精力がある事にも感心した。
時折、素なのかネタなのか判断がつきかねる面白い事が書かれているが、その微妙な按配の面白さは老人にしか醸し出せないものなのではないかと思う。
ブログというものは「死ぬまでの暇つぶし」になるのかもしれない。


2016/01/25 23:07 |雑記COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

バス雑感


年末の話だけど、地区を走る循環バスに乗った時、ぼーっと外の風景を眺めていたら、いつの間にか乗車したはずのバス停に戻っていたという事があった。ぼーっとしすぎだろうと我ながら思ったが、つまりそれはバスの居心地の良さの証左かもしれない、などと言い訳をしてみる。

電車が好きかバスが好きかと言われれば、甲乙つけがたい。電車では読書ができるが、バスで本を読むと車酔いする。窓から見える景色はバスの方が好きだ。1人掛けの席があるのも嬉しい。ただし、変なおじさんや痴女に遭遇した場合に隣の車両に避難できないのがバスの弱点か。
電車の運転は素人にはわからない難しさがあるのだろうが、バスの運転の場合は普通の車が大型化したという素人にも想像しやすい難しさがある。自分が車の運転があまり上手ではないので、バスの運転手の方がはるかに尊敬度は高い。
とはいえ、バスにはたまにしか乗らないので、利用時の非日常性や新鮮味により、俺にはバスを良く見ようとするバイアスがかかっているかもしれない。

バスに乗った時、乗客が次々と運賃をプラスチックでできた透明の箱みたいなものに投げ入れる。あの運賃の額は運転手がちゃんと確認しているのか、果たしてそんなに素早く確認できるものなのか、わりと長年の疑問だったのだが、その疑問が解決した。
今日、バスに乗った際に俺の認識違いで運賃を10円安く払ったら、即座に運転手に指摘されてしまったのだ。驚いた。ちゃんと見てるんだなぁ。
ますますバスの運転手への尊敬の気持ちを強くした。これまた、ぼーっとしすぎ案件ではあるが・・・・・・。


2016/01/24 23:09 |雑記COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

レトルトカレー


最近、週に2、3回の頻度でレトルトカレーを食べている。これだけ食べているとお気に入りのカレーが見つかるような気もするのだが、なかなかこれという商品は見つからない。値段が高ければ美味しいというわけでもなくて、一度美味しいと思ったものでも次に食べた時にそうでもないなと感じる事もあるし、その逆もある。
もし俺がこれぞというお気に入りのレトルトカレーを見つける時が来るならば、歓喜の声をあげて、裸で外に飛び出すかもしれない。
とにかく今では、家に最低2個は常備していないとソワソワと浮き足立ってしまう。レトルトカレー中毒か。

2016/01/23 23:09 |雑記COMMENT(4)TRACKBACK(0)  

あるいはバベルのワードファイル


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赤瀬川原平に『宇宙の缶詰』という芸術作品がある。(上写真)
蟹缶の中身を食べ、ラベルをはがして、内側に貼り直した後に、はんだで再び閉じたものだ。本来は外側にあるはずのラベルが内側にある事によって、この世界は反転する。内外が反転した結果、缶詰の中が宇宙になってしまう。鮮やかな発想だ。

ボルヘスに「バベルの図書館」という小説がある。
このタイトルにもなっている架空の図書館にある全ての本は22文字のアルファベットと空白、コンマ、ピリオドの25文字しか使われていない。本の内容はこの25文字によって組み合わせられる無造作な文字の羅列だ。もちろんそのほとんどは意味の無い羅列であるが、本の数は無限にある為、中には偶然にも秩序だったものも無数に存在する。よって、この図書館には世界でこれまで書かれた本、これから未来に書かれる本、その全てが揃っている事になるのだ。夢のような図書館だ。無限に続く本棚というのは悪夢のようでもあるようだけど。


前置きが何だか仰々しくなってしまったが、ここで卑近な俺の話に移る。
今日、職場の共用PCのデータの整理をしていると、 モニターに映るひとつのファイルが目にとまった。 いつだったか忘れたけれど、保存する際に設定パスワードを間違えた為に誰も開けなくなってしまったワードファイルだった。 幸いにバックアップがあり、業務上はことなきを得たが、 消去することを忘れていたんだろう。

二度と開かれることのないファイルの中身。
それは本来あるべき姿を失い、同時に自由を得て、 ファイル容量の指し示す範囲内での、ありとあらゆる文字の組み合わせのテキストになりうる。 ペローの童話よろしく開かずの間には死体の山があるのかもしれないし、あるいはツルが機織りをしているのかもしれない。いずれにせよ誰も確認できないのだから、どうにだって変化できる。
中世デンマークであって、太陽まぶしい海辺で、華のパリで、夏のサンクトペテルブルクで、木星行きロケットで、崩壊していくアッシャー家・・・・・・。
『宇宙の缶詰』さながら、ファイルは内へ内へと膨張していく。

今日もまた、世界中のあまたのうっかり屋さん達の手によって、『宇宙のファイル』が作られているのだなぁ。 そんなことを考えながら、ファイルをデスクトップのゴミ箱に放り入れる。
次の瞬間、ガリガリガリガリ・・・・・・という、どこからともなく聞こえてくる大きな音とともに、窓から見える青い空がドットになって消えていった。


2016/01/21 00:39 |雑記COMMENT(2)TRACKBACK(0)  

ドーナツを5つ買う事について


セブンイレブンで売っているドーナツがリニューアルされたとのネット記事を読んだので、寒風吹きすさび、歩道も凍る中、仕事帰りにさっそくセブンイレブンに行った。特にドーナツが好きなわけではないが、なぜか食べたい気分だったのだ。
店内の天井には「セブンカフェドーナツ」の吊るし広告がズラーッとぶら下がっており、力の入れようが分かる。レジ横にある陳列棚を覗くと、7種類か、それぐらいのドーナツが置いてあった。

買ったのは、きなこが好きなので、きなこがまぶしてあるドーナツと、定番のオールドファッションと、一番人気のドーナツも捨てがたいのでそれも買い、ミスドのハニーディップにそっくりなドーナツも買い、店員に薦められるがままにツイストドーナツもついでに買った。
つまり5つも買ってしまった。

独り暮らしの男がドーナツを5つも買う事について、諸氏はどう思われるのかは知りませんが、俺としては確実に「買いすぎた」としか言いようがない。
自宅にはレンジもオーブンも無く、これから2、3日かけてパサパサの冷えたドーナツを食べていかなくてはならない事を考えると、これは軽い悲劇性を孕んでいるのはないかと思う。

アンパンマンに似たおばちゃん店員の高笑いが聞こえてきそうだ。


2016/01/20 00:05 |雑記COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

俺は彼女にかける言葉を知らない


土曜日の昼下がりの喫茶店、色んな人達が思い思いの時間を過ごしているように見えた。
会話するカップル、新聞を読むお爺さん、打ち合わせをするスーツを着た男女、黙然としてコーヒーを飲む男、勉強する学生、フランスのサルコジに似た怪しい初老の男性。
俺はコーヒーを飲みながら静かに文庫本を読んでいた。もうかれこれ三十分ほど待ちぼうけを食らっている。

店内に大きな音が響いた。ウェイトレスの女の子がコーヒーをこぼしたのだ。困った事にこぼしたコーヒーはスーツを着た男にかかっていた。よくテレビのコントなんかで見かける光景だが、実際目の当たりにしたのは初めてだ。笑えはしない。ウェイトレスは慌てふためき、謝りながら必死で拭いていた。今にも泣きそうだった。男は、下着まで濡れてしまったかのような仕草をし、まるで台風に家の屋根を飛ばされてしまったような困った顔をしていた。
男はコーヒーを一口、二口飲んだ後、バツが悪そうに店を出て行った。

少しして、俺はコーヒーをおかわりしようとウェイトレスを呼んだ。
ウェイトレスはやってきた。コーヒーをこぼした女の子だ。さっきのミスがまだ心を覆っている事がその表情から見て取れた。
おかわりが欲しい旨伝えると、彼女は「おかわりですね!」と笑顔で返事をした。
それは危うげで儚く、今にも崩れそうだが、仕事を成し遂げようとする自恃の念に支えられた美しい笑顔だった。いうなればまさに「貝殻のふちを歩くような」と形容できる複雑で繊細で危うく美しい表情。
「大変だったね」と声をかけるのは簡単だが、それはスカしたポコチン野郎や立派な髭を蓄えた紳士の仕事だ。
俺は彼女にかける言葉を知らない。


2016/01/17 00:10 |雑記COMMENT(4)TRACKBACK(0)  

カレーか、シーフードか


昨夜、ローソンに行ったら、カップラーメンのコーナーで妙な動きをしている人を見た。
工事現場の兄ちゃん風のその男は、カップヌードルのカレー味を手に取り、棚に戻し、今度はシーフード味を手に取り、棚に戻し、またカレー味を手に取り、棚に戻し、またまたシーフード味を手に取り、棚に戻し・・・・・・、と何度も繰り返していた。どっちにするか悩んでいるのだろうが、苦悩する哲学者もかくやというような表情で何度も繰り返していた。何もわざわざ手に取らなくても、と思ったのだが、彼なりの強固な信念があるのだろう。
俺はカップラーメンを物色するフリをしながら、それを静かに見守った。やがて彼は何も買わずに店を出て行った。

何なんだ! と思う一方で俺には彼の気持ちが分からないでもない。
悩むあまりに当面の問題を放棄してしまうという事は結構ある。先日もあった。最近、スマホの調子が悪いので買い替えようと、iPhoneやらAndroidの各機種のスペックを調べていたのだが、調べれば調べるほど機種毎の一長一短が見えて、買い替え機種を決めかねた。悩むあまり目眩さえ起こしそうだった。そして俺は買い替え問題を放置した。
普段は別にスマホの性能にこだわる方では無いのだけど、買う時だけはやけにこだわってしまうのである。さすがにカップ麺であそこまで悩む事はないけれど。

件のカップヌードル男の抱える問題はおそらく空腹という喫緊のものだと思われるだけに、彼の取った行動は正解だったのかは微妙なところだ。
200円前後の買い物である。俺だったら両方買うよ。もしくはどん兵衛を買うだろう!


2016/01/15 06:26 |雑記COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

無害で陰気で愉快な空想を


会社にミサイルでも落ちないか、と空想する。

もちろん実際に落ちたらそれはそれで大変なわけだけど、会社にミサイルが落ちる、という空想をする事によって俺は愉快になる。崩壊する社屋、舞い散る書類、逃げ惑う社員たち・・・・・・
梶井基次郎の代表作『檸檬』では、主人公は爆弾に見立てた檸檬を積み上げた画集の上に置いて書店を立ち去る。あれも気分が晴れるような愉快な空想ではなかったか。

スコセッシ、コッポラ、ウディ・アレンの三人が監督した『ニューヨーク・ストーリー』というオムニバス映画がある。見たのはだいぶ前の事で、内容はほとんど忘れてしまっているのだけど、ウディ・アレンが監督した作品の中で今でも覚えているシーンがある。
主人公の冴えない中年男を例によって監督自身が演じており、その主人公には何かと口うるさい過干渉の母親がいる。主人公はそんな母親を疎ましく思っている。ある日、二人はマジックショーに行き、そこで母親がステージに呼ばれ、箱に入れられサーベルで串刺しにされるという事になる。この時カメラは、主人公の愉悦に浸るような恍惚とした表情を映し出す。この恍惚は、母親がいなくなって欲しいという潜在願望と眼前の光景が合致した事によるものだ。マジックという装置が愉快な空想を完成させている。

以前、会社の上司とFPSをプレイしていた時期があった。FPSというのは、つまりテレビゲームのジャンルの一つで、自分が兵士となってやり合う戦争3Dアクションゲーム。これがオンライン対応だったので、各々が家に帰った後に一緒にプレイしていた。ゲームは15人対15人に分かれ、銃で撃ち合うわけだけど、俺も上司もあまり上手ではなかったが、俺の方が若干成績は良かった。一緒にゲームをするなんて仲がよいんだな、と思われるかもしれないが、特段そういう事はなかった。むしろ上司に対する普通の感情として、日頃疎ましく思ってさえいたし、将来偏屈じじいになりそうな頑迷な性格に閉口する事も多々あった。

それはそれ、これはこれ。ある日、敵味方に分かれた我々はいつものようにゲームを楽しんでいた。ふと草むらの茂みに視点を移すと、上司のプレイするキャラが背中を見せて銃を構えている。頭隠して尻隠さずとはこの事だなと思い、さっそく銃で蜂の巣にしてやろうと考えたのだが、俺は考えを変え、銃をナイフに持ち変えて、後ろからこっそり忍び寄り、ナイフでサクッと上司を昇天させた。
なんとも言えない陰気で残忍な嬉しさがあった。この時の俺は、ウディ・アレンのように恍惚とした表情を浮かべていたに違いない。

ミサイルを落としても、書店に爆弾を置いても、人がサーベルで串刺しにされても、上司をナイフで抹殺しても、それが空想上なら問題ない。それだけで気分が晴れるという事がある。
何でもいい。空が飛べたら、宝くじが当たったら、超能力が使えたら・・・・・・
愉快な空想、それは重苦しい日常を突破しようと試みる頭の中の遊戯だ。
人生の憂鬱を一時だけやり過ごす溌剌とした要素になり得るのだろう。


2016/01/12 01:10 |雑記COMMENT(2)TRACKBACK(0)  

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