FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--/--/-- --:-- |スポンサー広告  

宇宙人か、ロボットか、役者か、それとも


あれは確か、祖父が毎月買ってくれた小学館の『小学三年生』などのいわゆる学年誌といわれる本に載っていたのだと思うのだけど、今でも妙に覚えている印象的な漫画がひとつある。いや、覚えているといってもあらすじはほとんど記憶になく、主人公の少年が、身近な人たちが実は地球人ではなく宇宙人だったという真実に気付く、というその場面しか覚えていないのだけど、その漫画が当時の俺に大きな不安を与えたのだった。もしかすると俺のお父さんとお母さんも宇宙人かもしれない……、と考えてしまったのだ。

父親や母親が人間の皮のようなものを脱いで、中から典型的なグレイ型の宇宙人が出てくる場面を描写したその一コマはおどろおどろしいタッチと相まって今でも強く覚えている。
学年誌のような雑誌が、なぜあんなに子供の不安を煽るような作品を載せていたのか、少し不思議ではあるが、時代といえば時代なんだろう。果たして、あの漫画はどういう終わり方をしたんだったか……。主人公の少年も宇宙人だったというオチだったかな。夢オチだったかな。今となっては分からない。(国会図書館に行き、当時の俺と兄の年代の学年誌を片っ端から調べれば出てくるかもしれないが、そんな気力は今の俺にはナイ)

身近な人たちが瓜二つの偽物に入れ替わっている、と確信してしまう妄想が精神医学で“カプグラ症候群”と呼ばれることを知ったのは、だいぶ年を経てからではあるけれど、確信とまで行かないまでも、なんとなく周囲の人間が偽物に入れ替わっているかもしれないという不安を抱えるのは、当時のpipopan少年に限ったことではなくて、ある程度は普遍的なものだと思う。だからこそ、ジャック・フィニィの『盗まれた街』や筒井康隆の『緑魔の町』、それにP・K・ディックのいくつもの作品など、古今を問わずカプグラ症候群的な作品というのは多いんではないか。

ジョン・カーペンターの映画『ゼイリブ』は、主人公が思いがけず手に入れた特殊なサングラスによって、町中の人たちの真実の姿(骸骨のような宇宙人)が見えるという話だったし、宇宙人ではなく、人間そっくりのロボットに入れ替わっているのは諸星大二郎の『夢みる機械』で、周囲の人々が本当の家族や友人ではなく演技をしている役者であるというのはピーター・ウィアー監督の『トゥルーマン・ショー』だ。

どれも個人的に面白い作品だと思うし、すごく興味を惹かれる。というのも結局、少年時代のあの漫画体験による不安が俺の細胞に染み込んでいるせいなのかもしれない。小さい頃の体験というのは、深い深いものなのだろう。


ところで、冒頭で述べたとおり祖父はいつも学年誌を俺に買ってくれていたのだけど、これってとても素晴らしいことだと思うな。俺は付録がいっぱい詰まった学年誌をいつも楽しみにしていたし、祖父としても孫に会う良い口実にもなる。俺にもし孫ができる日が来るとしたら、同じことをしようと思う。(そんな日が来るのかどうかはさておいて。)


スポンサーサイト

2016/05/31 05:54 |遠くへ行きたいCOMMENT(2)TRACKBACK(0)  

バブシャワー礼讃、ときめきに死す

201605300458099b3.jpg

バブ爽快シャワーの季節が来た。
入浴後、これを体に塗るととてもスースーして気持ちが良い。風呂上がりというのは基本的に気持ちの良いものだが、バブシャワーのおかげでさらに良い。

誤って陰嚢に塗ると地獄の門を開くことになるけれど、たまにそのスリルが欲しくなる。バブシャワーは種類がいくつかあって、もちろん、男は黙ってもっとも刺激の強い「スーパーエクストラクール」を使うべきなんだろう。刺激の向こう側に、ひりついたきびしい世界とのやさしい親和を感じる。地獄の門は、天国の門でもあるのだ。どちらに行くのかは君次第だ。


2016/05/30 05:19 |雑記COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

赤い赤いめんたいこ


日野啓三の『此岸の家』という小説を読んでいたら、明太子のことが書かれていて食べたくなったので、スーパーに行ったついでに久しぶりに辛子明太子を買った。100グラムで400円もしないロシア産の安いもの。見た目が綺麗で、綺麗すぎて人工的な感じを受けたけれど、美味しければ問題はない。

俺は半生の明太子が好きなことを思い出したので、焼こうと考えた。ネットで焼き方を調べると、オーブンや電子レンジや焼き網やフライパンなどを使った様々な焼き方があり、どれが正解なのか分からない。いずれにせよ、オーブンも電子レンジも焼き網も持っていないのでフライパンで焼くしかなかった。

フライパンで焼くにしても、アルミホイルで包んで焼くとか油をひいたほうが良いとか酒で蒸すようにするとか色んな方法があるようで俺を悩ませる。悩みすぎて毛が300本くらい抜けた気がした。
結局はフライパンで何もひかずにそのまま焼いた。弱火で焼いたのだけど、かなりベストに近い状態に焼けたと思う。外側は少し焦げて香ばしく、中はしっとりだ。美味しかった。また買おうと思った。けれど、食べてから20分もしないうちにおなかが痛くなった。それでも、また買おうと思っている。


2016/05/29 02:03 |雑記COMMENT(2)TRACKBACK(0)  

ブログの夢


文章にすることで発見をしたい。
経験というものを言語化する過程で現れてくる新しい景色を見たい。
生活に句読点をつけ、不定形なものに輪郭を与えたい。
ブログに対して、そういう願望がある。

以前からずっとファミコンなどのゲームについての文章を書きたいと思っているのだけど、ついぞ書けずにいる。最近はあまり遊んでいないが、子供の頃はかなり遊んだ記憶があるし、社会人になってからも、自分でも驚くほどの飽き性に翻弄されながらも、それなりに遊んできた。だから、書く題材には困らないような気もするけれど、うまく文章にできない。

例えば、子供の頃、友人とマリオカートをしていたら、その友人がレースに熱中するあまり、うんこを漏らしたのにも関わらず、うんこの処理をせずにそのままレースをやり続けるという話があるのだけど、この話をノスタルジックにリリカルに語るのは無理なのだろうか。え、無理だって?
マリオカートはそれくらい偉大だったな、うん。

いいかい、文章というのは何を書いたって結局は己のことを書くということになるんだよ。

2016/05/27 04:53 |雑記COMMENT(2)TRACKBACK(0)  

僕はそれを断り続けるだろう


この歳になると、結婚式のスピーチなどを依頼されることも増えてくるわけだけど、いかんせんそういうのがとても苦手なので、けっこうな割合で断っている。周囲からはずいぶん不義理な奴だと思われていると思う。

めでたい場だから、最高のスピーチで新郎新婦を心置きなく祝福したいという気持ちはある。けれど、場を台無しにしてしまうんじゃないかという昔からの脅迫観念のようなものがある。
それなのにスピーチの依頼が増えてくるのは、俺の社会的な虚像ばかりが一人歩きしてしまっているんだろう。

本来、挨拶の類というのは社会人として生きている以上は避けられない事柄であるし、苦手だからといって何でも断ってしまえば、人間としての評判を落とすことにもなる。ダメ人間の誕生。そうして、人はますます孤独の陥穽に堕ちていくのかもしれない。すとーんっと。


2016/05/25 04:58 |雑記COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

静かな生活


部屋に置いている、ほぼ音楽再生専用マシンと化しているノートパソコンが壊れた。
ハードディスクドライブを交換すれば直るのだろうけれど、肝心のリカバリディスクが見つからない。メーカー取り寄せになる。発送時期の関係で引越し後に復旧することになるので、それまでパソコンのない生活になりそうだ。

部屋にいる時、ネットやメールをするのもブログを書くのも全てiPadでやっているので、パソコンがないからといって今のところ大きな支障はないのだけど、音楽を流すことができないので、今の俺の部屋はとても静かだ。なんだか落ち着かない。

音楽のない部屋、それは油揚げの入っていない味噌汁のようです。


2016/05/23 05:50 |雑記COMMENT(4)TRACKBACK(0)  

それはパチンコという遊戯だった


一時期、パチンコをやっていた。やるといってもあまり金を使うことはしなくて、大抵は一度に五千円、多くて一万円ほどしか使わなかった。金を儲けるというより、パチンコ店の馬鹿げた喧騒に埋もれたかったのだ。パチンコに横溢する露悪的なデザインや言語に接するのは良い気分転換になった。もちろん、勝てばなお良い。

寺山修司はパチンコ球の上から下に落ちていく様子を人生の一回性になぞらえていたし、ロラン・バルトは「パチンコの玉の進路は、はじくときの一瞬の稲妻によって宿命的に決定される。」と言っている。
寺山やバルトの語るそれは一個一個の球をレバーで弾いていた手動の時代のことであり、ハンドルをひねるだけで次々に球を打ち出す現在の多分にオートマティックな台とは、要する神経も違えば、時間当たりに発生するトライ&エラーの量にもけっこうな違いがあって、今は風情も何もあったものじゃないけれど、いわば運命論的遊戯のパチンコは、かなり受動的な行為だと思うし、その意思の放擲が心地良い。

当時、俺は自由が丘に住んでいたけれど、あのハイソな町には駅の近くだけでも、意外なことに五軒もパチンコ店があった。客層は普通のパチンコ店と変わらない、つまりハイソサエティとは対極に位置する、ジャージにサンダルにくわえ煙草の、生活に打ちのめされたような人たちで、こういう人たちはどこにでも存在するんだなぁ、と不思議に感じていた。傍から見れば俺も同じ種類の人間なのかもしれない。

好きだったのが『創聖のアクエリオン』という台で、テレビで放映されたCMでの「あなたと合体したい」という性的なフレーズがちょっと話題になったんじゃなかったか。たぶん元はアニメ作品だと思うのだけれど、この台は演出のギミックが派手でよかった。演出によって、CGではないプラスチックだかアクリルで出来たロボットの上半身と下半身が本当に「合体」した。そして、大当たりが確定したら艶かしい女性の声が大音量で鳴り響く。「きもちいぃ〜!」と……。
つまり、ばかばかしくって笑っちゃうような、パチンコの持つ素晴らしい悪趣味の極致という感じがしたのだった。


2016/05/21 00:18 |雑記COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

そういうことにしておこう


いつからかテレビの調子が悪い。たまにテレビの画面が数十秒間停止する。大抵は何もせずに待ってれば自然復旧するのだけど、それでも治らない場合は電源をオフオンするしかない。テレビをそんなに見る方ではないし、ビデオの時はその障害は発生しないので、特段気にはしていない。まだまだ寿命ではないだろう。

そういえば、数年前こういうことがあった。
俺は仲の良い同僚と、職場近くのさびれた中華料理店に入り、座敷に座った。俺のすぐ後ろには赤いボディのブラウン管の古いテレビが置いてあった。その日は、ワールドカップだかオリンピックだかでサッカー日本代表の試合が行われており、料理を待つ間、俺と同僚はその放送を熱心に見ていた。

すると画面がとつぜん砂嵐になってしまった。チャンネルをガチャガチャしても直らない。こういう時、ボディを叩けば直る、と古代文書で読んだ(いや、『ちびまる子ちゃん』だったかもしれない)ので、軽く一発かましたら、ボンッ! という大きな音ともにテレビ画面は真っ暗になり、うんともすんとも言わなくなった。確実に何かが爆発した音だった。俺はテレビの構造を詳しくは知らないが、家電が爆発する音を初めて聞いた。

さいわい、店員は奥に引っ込んでおり、気付かれなかった。ほんの少しの罪悪感はあったが、なにしろかなり古そうなテレビだったので、壊れるのは時間の問題だったんじゃないかという気がした。俺は、叩いたことはあいまいにしつつ、テレビが壊れたことを素直(?)に店員に伝えた。店員は「あ、そうですか、古いから」と平然としていた。

そして後日、再び店に行ったら、新しい液晶テレビに変わっていた。

啐啄同時(そったくどうじ)という言葉がある。鶏の雛が中から卵の殻をつついて外に出ようとする時、同時に親鳥が外から卵をつついて殻を割ろうとする様子のことだ。
テレビにも内在する故障のタイミングというものがあって、一方で、俺による外的要因の故障のタイミングがあり、その二つがたまたま合致しただけかもしれない。そういうことにしておこう。



2016/05/20 01:37 |雑記COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

時折、「俺は東京の何を知り得たのだろうか? 」と思い、愕然とすることがある


十数年間ではあるが、東京に住んだ。嫌いではなかった。休日にアクティブに動き回るという人間ではないので、あまり話題の場所に行くことはなかったし、仕事で疲れて近所の喫茶店で読書するだけという日も多かったが、前回のオープンカー理論ではないけれど、すぐに東京のどこだって行けるんだぜ〜、という気持ちはあった。それに思い返してみれば、人付き合いやら何やらで案外いろんな所へ行っている。少なくともファンタジーとしての東京はもはやどこにもない。俺の中の東京は現実になった。それは嫌いではなかった。
都市には都市の強靭さを求められ、田舎には田舎の強靭さを求められるのだろう。俺は東京の有象無象の中に立ち尽くすいくつかの強靭な人を見た。それは激しい砂塵の中の美しい蝶を想起させた。

故郷と対置するものとしての東京がある。
東京というところは、田舎者の集まるところだと言われるけれど、それは本当にそうで、自分も含めて田舎者が集まって都会人のフリをする愚かな場所が東京だともいえる。そんな中で、洗練された本当の都会人に会うことがあって、そんな時は仄かな羨望と軽い失望を抱くことになった。(「洗練された都会人」という物言いがすでに田舎者っぽい。)
知り合った人達の中に、多くの尊敬する人がおり、多くの軽蔑する人がいた。後者に属する人間にはなるまいと思ってはいたけれど、果たして望んだ通りになったかどうか。

“東京らしさ”とはなんだろう?
それは人の多さだったり、入り組んだ交通網だったり、高層ビル群だったり、他者との距離感だったりするだろうか。その“東京らしさ”というものを目の前にした時は、今でも自分という存在と東京との乖離を実感し、同時に居心地の良さも感じるのだった。東京には馴染んだ、ともいえるし、結局最後まで馴染まなかったともいえるかもしれない。多義的な都市だ。一人の中に十個の東京があってもいい。
それと、初めて新宿に行って、迷って、思いがけず「新宿の目」に出会い、これが諸星大二郎の漫画に出てきたあれか! と興奮した経験。そういう感興というのは東京ならでは、という気はする。

大体、東京を語ろうというのが無理なのだろう。語りきれぬのが東京だ。
東京に未練がない、といえば嘘になるが、今は驚くほどの安値で航空券が買えるからそんなに遠いとは感じないな。オリンピックの狂騒を肌で感じたかった、という思いはある。東京で出来た僅かな友人との別れも惜しい。別に今生の別れではないけれど。

しかし、佐賀には佐賀の良い所がある。例えば、ジャスコのタワーレコード、ジャスコのヴィレッジヴァンガード、ジャスコのくまざわ書店。え、全部ジャスコだって?



201605180301545a6.jpg
(新宿の目)


2016/05/18 03:21 |雑記COMMENT(2)TRACKBACK(0)  

本の処分に伴うユーウツのようなもの


とある事情により、佐賀に帰ることになった。帰るというのは帰省という意味ではなくて、再び実家に戻って住むということ。
実家で俺に割り当てられる部屋は8畳の一間なので、今持っている本はどう考えても置く場所がない。じゃあ処分するしかないか、となるのだけど、なんだか処分することを考えるだけですでに少し憂鬱になる。一度読んだ本を読み返すことはあまりないから、じゃあ売り払っても構わないじゃないかとも思うのだが、そうとも言えない。

誰かからオープンカー理論というのを聞いたことがある。オープンカーを持っていても季節やら天気やらで、結局屋根を開放するのは年に1、2回しかないが、「いつでも屋根をオープンできるんだぞ。年中無休だぞ。」という気持ちが心に余裕を与え、それが人生を豊かにする。オープンカーの所有者にはそんな心理がある。そんな話だったと思う。

俺にとっての本の所有にはそういう側面もあった。いつでも読み返せる、という気持ちの余裕、嬉しさのようなものがあった。(あるいはそれは卑小な思考かもしれない。)
それに、好きな作家の本をここまで揃えたんだという満足感もあるし、今回のことで東京の数々の書店、神保町の古書店街などを歩き回った思い出までも本とともに失ってしまうようで、けっこうな喪失感がある。思いのほか一冊一冊に思い出があるものだ。手元に残す本と処分する本を峻別する作業はきっとむずかしいだろう。

と感じつつも、本を売ったら売ったで案外スッキリするかもしれない。いつの間にか、物に支配されてしまっているということもあるんじゃないだろうか。

偉大な人達の、偉大な物語に、偉大な思考。それらを少なくとも一度は読んだのだから、本を失っても、俺のちっぽけな脳のどこかにはその欠片が残っていることだろう。きっと無意味ではないのだ。そう思いたいね!



2016/05/17 05:29 |雑記COMMENT(6)TRACKBACK(0)  

 | BLOG TOP |  NEXT»»
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。